話していてかみ合わないタイプ、誰にでもあると思うが
自分の場合、ネガティブな仮定を決定事項としてそれを元に理論展開されると
「その尺度、ちょっと強引すぎないかい?」と思ってしまうことが多い。
本人に悪気は無いのだろうが、基本的思考回路がネガティブなので
恐れに対する防御にエネルギーを費やして創造へ回すエネルギーが枯渇してしまう。
「話し合い」には「尺度=ものさし」の共有が無ければ成り立たない。
「話し合い」で「支配」を目的にすれば、異なる価値観にはほとんどの人が否定で対応する。
「話し合い」で「調和」を目的にすれば、受け入れ合いながら初めて落としどころが探れる。
結局、前々回のブログとダブってしまうが、世界には「支配」にしか価値を見いだせない人種もいまだに多い。「先進国」の「首脳」でさえ。
「道徳的」に話し合いをするなら「調和力」をプライオリティのトップ置けば間違いないと信じている。何度も言うが精神性の極みは「調和力」にあると信じている。
そして「調和力」に満ちた場の醸成にはただ相手の「調和力」を讃え合うだけで良いとも思っている。
(まぁ、それがなかなかできなかったりするけど・・・^^;)
以下のブログでも、「自分の言葉で話せ」と言った側の「自分の言葉で話せ」は「自分の言葉」なのか? 自分は話せていて、相手は話していないという自分勝手なものさしでの決めつけには肩をすくめざるを得ない。
世の中、ネガティブな洗脳に溢れているので仕方ない?けど、自分勝手でネガティブな「ものさし」を振りかざすと不幸を招くのに、なかなかみんなその「ものさし」が手放せない。
その「ものさし」こそ人生の「プログラミング言語」なのにね。
※ 以下の10年前のブログ、アカシックレコードあたりのことはもっと遠回しの表現が良かったかな・・・^^?
本を読んで・・・?
2009-09-08 22:54:43
昨日の本がらみで・・・・
今日、友人に尋ねられた。
ある人物が意見を求められ、自分が感銘した本の一部を紹介したところ、
「もっと自分の言葉で話せ。」と言われたという。
「自分の言葉」てどうするっちゃろ? と聞くので言ってやった。
「良かったい、そのまんまで。自分の口で言うたっちゃろ?・・・自分の言葉やん。」
・・・ちょい強引すぎた? 心持ち反省して・・・
「ただ、本で読んだて言わんやったら、そげん言われんやったかも知れんね~」
「あとは、自信たい!」
実際そうなのだ。
本を読むには、そこから何かを得ようとする意志が必要だ。
そして本を選び読む。
同じ文章でも受け取り方は百人百様。
文字だけで著者の思想を完全に把握するのはおそらく不可能だ。
その言葉が必要だと感じるシチュエーションも人それぞれ。
そしてそれを言葉にするとき、その人の思考のフィルターを通る。
だから、その人の言葉にしかなり得ない。
さらにスピリチュアルでだめ押しするなら
すべての人々は、本来アカシックレコードという無限の共有知識を持っている。
ただ、最初から知識がすべてあれば、経験の喜びが薄れる。
「映画を見に行こうと思っているのに、結末は聞きたくない。」というアレ。
だから、一旦知識を初期化して生まれてくる。
そしてさまざまな経験を通じて知識を喜びとして?思い出していく。
そのさまざまな経験のひとつひとつが、行動の結果であり、
尊敬する人物の言葉であり、感銘を受けた映画であり、自分が選んだ本なのだ。
元々自分の知識であったものを、体験を通じて思い出し確信しているだけ。
その様々な経験は、生まれる前に宇宙の意志とともに計画されたもの。
中継を誰がしようと、元々すべての共有知識を自分の選択で思い出しただけ。
だから、自信を持ってパクろう・・・・ ちがうか? ^^;
結局、確信の問題でした。
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m(_ _)m
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